本願寺の「本願」とは、
私たち庶民の側が抱く願い事だと思っていましたが、どうやらそれは違うようです・・・この世に生きる全ての人々をあまねく救いたい、そう思っていらっしゃる阿弥陀様の願いこそが「本願」なのです。
西本願寺の阿弥陀堂門。
親鸞の師に当たる法然の唱える専修念仏に対する弾圧が強まり、越後の国に流されることになった親鸞。
越後の地において、独自の道を歩み始めることになった親鸞は非僧非俗の境地に辿り着きます。そう、庶民の間に自ら入って行き、その教えを広めていったのです。
南無阿弥陀仏。
南無とは全てをゆだねることを意味します。
阿弥陀仏に全てをゆだねる。
そうすることによって救われると言うのです。
浄土宗を開いた法然は専修念仏によって人は救われると説きました。ただただ念仏を唱えていればいい、そうすれば人は救われる。念仏の大切さを説いたのです。
一方の親鸞は、念仏を唱える必要はない、ただただ阿弥陀様を信じればいい・・・そう説いたのです。
荘厳な門に施された十六菊花紋の意匠。
ただ信じればいい。
なかなか深い教えなんだろうなと思われます。
世の中に広まるためには、単純であることが望まれます。比較するのは失礼に当たるような気もしますが、グーグルやアップルのイメージにも重なります。単純で分かりやすい、専修念仏の教えはそういう意味で画期的だったのだろうと思われます。
堀川通(国道1号線)の向こうに見える御影堂門。
観光客を乗せているであろうタクシーが行き交います。
庶民との交流の中で阿弥陀仏の教えを広めていった親鸞は、自ら田植えの手伝いをしたとも伝えられます。非僧非俗・・・確かに全く別世界の人の話など、耳を傾けたくもありませんよね(笑)親鸞は営業センスにも優れていたのかもしれませんね(^u^)
やはり、中庸こそ真理なのでしょうか。
ニュートラルな状態の中で見出される真理のようなものを感じます。
全てをゆだねる・・・
あるがままに、と歌ったジョン・レノンにも通じる何か尊いものを感じますね。