「二番手で行くのがいい」
東京のサラリーマン生活時代に、上司からよく言われた言葉です。一番になると返って苦しいから、その次の二番手で長く走り続けるのがいいと諭されたものです。禅の世界観が表現される龍安寺の石庭には、何かその教訓に近いものが感じられました。
龍安寺石庭のミニチュア模型。
目の不自由な方のために、小さな模型が売店の前に置かれていました。手で触って、その伝わる感触から龍安寺の石庭を鑑賞するためのものです。方丈の前の軒先に座って、何となくぼんやり石庭を眺めている私たちよりも、目の不自由な方々の方がきっと何かを感じ取っておられるはずです。
15個の石が配列された龍安寺の石庭。
どの角度から見ても、15個全部を一度に見ることは出来ないように作られています。14個は見えても、15個は見えない。完成の一歩手前で、肩透かしを喰らわされる。あれ、なぜ?といった感じです。
おみやげもの売場の周りには、龍安寺の石庭を写した写真があちこちに飾られています。
物事が完結してしまうと、次には破壊が待っている。その一歩手前で止めておく。龍安寺の石庭には、どこかそんなニュアンスが感じられます。サラリーマン時代に上司から聞かされた「二番手で行くのがいい」という言葉が再び蘇ります。完成を目指してコツコツと努力していく姿は美しい。しかしながら登り詰めるのではなく、その一歩手前で引いておく。そういう姿もまた美しいのだと。
このミニチュア模型に何を感じるのでしょうか?
配列の妙、あるいは大小の凹凸に意味を見出すのでしょうか。はたまた敷き詰められた白砂の流れに、己が身を委ねるのでしょうか。
室町時代末期に、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられる龍安寺の石庭。時代を超えて、石庭に込められたメッセージを感じ取ろうとする私たち。音楽の解釈が千差万別であるように、人気の枯山水庭園の解釈にも色々あっていいのではないでしょうか。
実物の龍安寺の石庭に見入る観光客。
鑑賞する位置を変えながら、それぞれに自分の世界に入って石庭を愛でます。コマ送りをするならば、まるで椅子取りゲームをしているかのような動きを繰り返す観光客たち。それだけ奥の深さが伺える庭と言えるのではないでしょうか。
空間の広がりこそ感じられませんが、ミニチュア模型でも十分に楽しめます。
五感の中の触角で感じる龍安寺の石庭。さすがに実物の石庭は触角では鑑賞することができません。ガラスケースの中に収納されているわけでもなく、拝観者の誰もが手で触って楽しめるように工夫されています。
車のハンドルにも遊びの部分があると言われます。
余裕を持たせる「間」の存在は、日本の文化をより豊かなものに育て上げてきました。そこに空白があるからこそ美しい、そう感じさせるものに数多く触れるのできる日本という風土に感謝したいと思います。
龍安寺境内の銭形つくばいにも、「足るを知る」精神が刻まれています。
満足とは何なのか?満ち足りた幸せとは何なのか?おそらく一度は問ってみたことのある問いを、再びこの龍安寺の石庭を前にして、堂々巡りのように問い質している自分に気付きます。
二番手で行くのがいい、耳元で再び木霊した言葉を胸に歩んで行こうと思います。